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お遍路旅44日目

2月 6日

相生駅の高架の下、駐車場の一廓にテントを張って寝てました。
外は路面の雨を吹き飛ばして走るトラックの音、
列車の通過する音、踏切の遮断機の音、駅の構内放送と、
まあ、賑やかでした。

そのおかげでしょうか?
目が覚めたのは4時半でした。
寝る前は6℃あった気温も、朝方には4℃まで落ちましたが、
雨さえなければ、それほど寒いと思う気温ではありません。

最近は暖かいので、寝袋には裸で潜り込んでいます。
朝まで時間はあるし、
できるだけ雨の中は走りたくありません。
そこで、オーバーパンツに裾バンドをしていても、
裾バンドがずれて、オーバーパンツの裾がチャリに絡みそうになったりするので
マジックテープで固定するよう、
お裁縫を、この、早く目覚めた時間を使ってやりました。

まだ、7時には雨が降り続けていました。
と言って、いつまでもいる場所ではありません。
仕方ないので、雨が降り続いていたら、
最初に目に入ったマクドナルドでテキスト起こしをすることにして、
出発準備を始めました。

その地を、出発したのは9時です。
その頃には、かなり小雨になっていて、
次の目的地の破磐神社までの途中にマクドナルドがありましたが、
結局寄る必要がなくなりました。

国道2号を走っている間に、目に留まった神社があります。
たつの駅にほど近いところにある
どうやら、「神戸神社(かんべじんじゃ)」という名の着いた神社です。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E7%A5%9E%E7%A4%BE
昭和時代に大造成をしたそうで、境内ががらんとして、
広々しています。
その造成した時に顕れ、撤去できなかった石にしめ飾りをして、祀っています。
何とも、無惨なことをしたものだと感じました。
本来そこにあった自然の気を造成により、
恐し、消し去ってしまい、人工的に作った神社だけが残っている。
そういう印象の人の愚かさを象徴した神社でした。

弘法大師とも縁があるようで、
大師がこの神社に寄った折、菜を食うことを拒んだことで、
秋の祭事に菜を食うと腹を壊すのだそうです。
それで「なくわずの宮」と言うのだと、看板にありました。
もしかしたら、そのことも
この神社が人の愚かさを示しているようながします。



本日の第一目標地、姫路市の破磐神社は
元々は静かな山の中にあったという印象ですが、
すぐ裏側を高速道路が走り、
なんだか裏側の森の気が削がれてしまったような地にありました。

更に、社歴を読むと、
元々は、1.7km西南の宮ヶ谷という地が狭く祭事には適さなかったため、
本来その地に矢を放たれて割れた岩があったにも関わらず、
その、祭事とやらのためにこの地に写したとありました。
??
一体何を祀っていた神社なのか、遷宮した人たちは分かっていなかった?
そんなことはないと思うのですが・・・、

じゃあ、その宮ヶ谷という地に行ってみようかと
Googleで検索しましたが、この神社の北東2kmぐらいのところに
ある企業の最終処分場として「宮ヶ谷」の名前がありました。
方向が180度違いますが、
おそらく、南西方向には谷はないので、
記述が180度間違っているのだと思われます。

つまり、本来の聖地は、すでに十分すぎるほど汚されて、
処分場と化している。
そして、遷宮してきたこの地も、
高速道路ができて気が削がれてしまったという
そういう地にこの神社はありました。


なんだか、今日は、二つ続けて、
人の愚かさを見せつけられた気がしました。





閑話休題
////////////////////////////////////////////////////////

ここで、私の神様感について
書いておきたいと思います。


世の中には、大きく分けると、
一神教信者、
多神教信者、
無神論者、
この参種類の人々が居るようです。

私はどのカテゴリーに入るかと言えば、
多神教信者ということになるのかもしれません。
でも、「一神教」というのも、
私は信じています。

この宇宙にあるあらゆるものが、
この宇宙のひとつのものから生まれています。
それが、父なのか母なのかは分かりませんが、
生み出したその元にあるものはただひとつのものです。
それは、十分祈る価値のある絶対の神と言えるものだと感じています。
というより、それが宇宙の根本であり根源だと思っています。

では、私にとっての他の神々は、どのような存在でしょか?

この世界、この宇宙のありとあらゆるものは、
唯一の根源、根本にある神様から派生していると、
私は考えています。
それは、私が係わるあらゆる人々、動植物など、命あるものから、
現代に於いては命とは認識されていない物質についてまもです。

そして、それは、
目に見えない世界に於いても同様にあると感じています。
そのように、目に見えない世界に於いて、
私に影響を与えるあらゆるものを、
私は全てまとめて、神様と呼んでいます。

それら、目に見えないながらも存在し、
私に係わる様々な神様(別の言い方をすれば『霊』と言って良い)は
唯物的には、その存在を認められてはいませんが、
厳然として存在していると、私は感じています。

それは、
私たち、この世界で生きている人々、動物、植物と同じように、
唯一根源、根本にある神様の一部であり、
そこから派生したものだと考えています。

ですから、私は様々な目に見えない神様(霊)たちと共に、
唯一絶対なる神様も、私の中には、存在しています。

おそらく、
言葉を発したり、姿を顕す何者かが顕れたり、
「我こそは唯一なる神だ。」と語る者の話を聞いたとしても、
私は、その存在が、「唯一根源、根本にある神様」だと思うことはありません。
そうやって、現れた時点で、必ず、それは唯一根源なるものから派生したもので、
唯一絶対なものではないと、私は考えないようにしています。

何故かといえば、
霊の世界でも、霊によって、能力の違い、見識の違いがあり、
その存在が、何処までの見識、どの程度の能力を持っているかで
差があると、考えているからです。。
それは、人により、できることの能力の違いがあったり、
見識に違いがあるのと同様だと考えています。

どんなに特殊な能力があろうとも、
どんなに知識を持っていても、
人は人でしかないのと同様に、
どんなに特殊な能力があろうとも、
どんなに知識を持っていても、
霊は霊でしかないと考えています。
それを、不思議な能力があるから、とか、
豊富な知識があるからと、崇め奉(たてまつる)のは
危険だと考えています。


私には、見えない世界のことはよく分かりませんが、
その目に見えない世界に於いても、
この世界に様々な人々が居るのと同様に、
見えない世界にも、人間、動物、昆虫、植物、微生物のように、
様々なものが存在しているとは感じています。

多くの人を援助し、助けることを好んでしている存在もいれば、
人々の畏怖を得る事を主眼に措いている存在もいたり、
誰かに恐怖を与えることを好んでやる存在もいると思えています。。
私を導き援助してくれる存在も居れば、
おそらくそれは、人間界で観られる以上に
種々様々な目に見えない存在があると思っています。

それらをひっくるめて、
私は『神様』として丁重に扱うようにしています。


様々な人と出会って話をして、
お礼を言ったり、感謝を告げたりするのと同様に、
そういった見えない存在に対しても、
お礼を言ったり、感謝を告げたりするのは
私には当然の行為となっています。
それは、犬や猫、様々な動物、虫、植物や細菌、微生物
そういったものに対しても、まったく同じです。

ですから、「唯一根源、根本にある神様」があると信じ、
その存在を、感じているからと言って、
そこから生まれてきた目に見えないありとあらゆる存在を
無視することは、私にはできません。

それをしたら、ある人に、お礼を言わなければならない場面で、
「あなたは私の信じる神様ではないから、お礼は言いません。」
というようなことを
見えない世界の存在に対して言ってしまうことになる。
と感じています。

相手が、唯一絶対の存在でなかろうとも、
助けてくれた人にお礼を言うように、
助けてくれた目には見えていない存在に対しても、
お礼を言うのがごく自然のことだと、
私は考えています。


相手が私を助けたいと思ってくれている存在であれば、尚更、
大切に扱えば、大切に扱われたことに対する反応が返ってくるし、
ぞんざいに扱えば、ぞんざいに扱かったなりの反応が、
返ってくることになると私は思っています。

それは、対人関係とまったく一緒で、
誰かに礼を尽くせば、礼で返してくれるようになるのと同様に、
目に見えない存在たちに対しても礼を尽くせば
その礼に対する相手の思いが返ってくると思います。


一神教信者の多くの主張は、正しいと感じていますが、
その人たちは、無神論者と同じく、
目に見えない存在が多種多様に存在しているということを
無視して居るように私には感じられています。
その意味では、唯物論者も、一神教信者も同じだと思えたりしています。

確実に、この世界には、目に見えない様々ななにものかが存在し、
様々な形で私たちに影響を与えています。
一神教信者といえども、人に対しては、
お願いをしたり、感謝したりといった
コミュニケーションをしています。
あなたは神じゃないから、コミュニケーションする価値はない。
と言ったりはしていないでしょう。
そのことが見えたら、
一神教信者と言えども、
その唯一なる神から派生した様々な霊たちとコミュニケーションし、
お礼の意を伝え、感謝の意を伝え、助けを求めたり、願いを伝えることは
許されて良いはずだと、私は考えています。



ところで、ちょっと話は飛びますが、
弘法大師は、悟っていたのでしょうか?

少なくとも、彼は、様々な目に見えない気を感じ取る能力はあったと
私には思えています。
それは、彼が設置した寺の多くの位置が神社のある地と重なっていることからも
そのことがうかがい知れるし、
寺の中に神社があったりと、
寺の枠ではくくれないものを神社を用いて祀っていることからも
伺えます。

でも、私は「弘法大師が悟っていた。」ということに関しては
私は疑問を抱かずには居られません。
というのも、本当に悟ったと思われる人々は、
必ず、「偶像崇拝はするな!」と戒めるのが常だからです。
仏陀もそうでした。
イエスキリストもそうでした。
悟っていたか居なかったか分からないけれど、
モーゼも、モマメッドもそうでした。

それは、人が偶像に願いを込めるエネルギーの怖さを
悟った者は知っているからだと私は考えています。

子供が遊ぶ人形にだって魂は宿ります。
(これは本当、ありとあらゆる物質にも魂は宿っています。)
仏像を造ったり、お地蔵さんを作ったりして、
それに祈りを捧げていれば、当然そこにはその祈りに対応した魂が宿ります。
でも、それは人の想いというエネルギーの場を構成しており、
それは、人の想いや、願いで生まれた人工的な気の場のように私は感じています。
そういう、偶像崇拝のエネルギーは、
様々な人々の身勝手な願望の固まりのエネルギーであり、
神仏に頼る依存のエネルギーです。

これはとても扱いにくいものであり、
かつ、悟りに至ろうとするには、じゃまになるものだと、
私は思っています。
ほとんどの場合というか、ほとんど必ず、それは、
拝金主義に行き着き、
腐った坊主、腐った牧師を生み出すことになってます。

それだからこそ、悟った人々は、
それを戒め、自分の偶像を造り拝むことを戒めました。
ところが、弘法大師はそのことを考えず、
あちこちに仏像を造り、信者に拝ませ、
人々が真言宗に依存する基礎を築きました。

このことから、私は、
弘法大師は確かに、目に見えない様々なものが見え、
般若心経を書き残し、
現代人でも解けない高度な知識を持っていたにも係わらず、
悟っては居なかったと思えます。



そして、
偶像崇拝により生み出される気とは別に、この世界には、
自然が生み出している気とかエネルギーと言えるものがあります。
日本人には、古来より、自然に対する畏怖感というものがありました。
それは、現代社会ではほとんど見られなくなった『アミニズム』的な感覚です。
そして、そのような気を発している地を、「いやしろち」と呼び、
それは古木などを中心にして森が生み出す気であったり、
火山や、温泉などのように、地中から吹き上げてくる気であったりし、
その気を感じることができる人が、その地を守る必要を説き、
その森を守るために、神社を配置して、
その森の中心的古木をご神木とし、
その森全体を「鎮守の森」として守り続ける事をしてきました。

ところがです、アミニズム的感覚をなくしてしまった人々は、
その森を守ることを疎かにして、
森の木々を切り倒し開発し、神社だけを残して、
それで満足するようになってしまいました。

この旅の中、多くの神社がそこで最も古い古木を
ご神木として祀っていました。
それは、自然の気が古木ほど高く発しているからです。
でも、私は感じます。
一本の古木だけではダメなんだって!
さらに、その古木でさえ、その根元が踏み固められ弱り果て、
気を発することが困難になっていたりしています。

本来は、鎮守の森として、
森全体で、気を発していて、
その中心的存在として古木が存在していたはずなのです。
その古木だけを残し、その古木さえ枯れさかけてしまっては、
すでに、その神社が存在していた意義は
ほとんど失われていると言って良いと私は思います。

そこには、人の祈りが集積したエネルギーの場が残るだけで、
自然の気が枯れてしまっているます。


今日見てきた神戸神社も、破磐神社も、
その場にあった自然の気をまったく無視した結果、
造成してその地を汚したり、
別の場所に移しして、大切な場を失い、
その地をゴミ捨て場にしてしまったりと
本来のその神社の意味をはき違えてしまって居るように
私には思えてなりません。

今回の旅の中で、
唯一、古木と共に生きた森がエネルギーを発していたのが
31日目1月24日に出会ったアカガシだけでした。
だからこそ、アカガシは、森全体として守られていって欲しいと
強く願わずには居られません。



////////////////////////////////////////////////////////




その後、姫路市内の「廣峯神社」というところに向かいました。
その麓と言えるところに、「白國神社」という神社が目に留まったので
その神社に寄ってみました。
「女性の守護神」とか書いてあります。
木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)命を祀っているとか、
その割に、桜の木も植えられていない寂しい男性の臭いしかしない神社ですが、
私には、廣峯神社を奥宮とすれば、
白國神社は廣峯神社の前宮に思えてなりませんでした。


廣峯神社は、白國神社のちょっと先から急激な登り坂となり、
自転車では登れないと感じ、
丁度そこに標識は読めないものの標識があり、
登山道らしきものがあったので、
その近くの建物の陰に自転車を措かせて頂きました。
何らかの宗教の建物のようでした。
丁度その建物の裏側から出てくる人が居たので、
置くことをお願いしたら、快く?置くことを承知して下さいました。
そういう系の方々ですから、
私の自転車の安全は確保されたような気がしました。

廣峯神社は姫路の市街を見渡す地にありました。
祇園精舎の守護神とされる祇園信仰の祇園神、
牛頭天王(ごずてんのう)の総本宮だそうです。

途中、参道を登ってくる時に、「大祖谷神社」という看板があり
気になったので入っていってみました。
二つの石にしめ飾りがされ、
その隣にボロボロの祠とも言える本殿がありました。
「天照大神」を祀っているようです。
牛頭天王よりも、天照大神の方が小さいんだ~!
そう思うとおかしくなりました。
一体このしめ飾りされていた二つの石は何だったのでしょう?
ネットを調べても情報が出てきませんでした。

登ってくる登山道も、かなりしめっていて滑りやすく、
境内も、かなりじめじめしていて、
先ほどまで雨が降っていたかのようでした。
そういえば、少しぽつぽつ降っていたりしましたが、
本格的には降らずに済んで助かりました。
帰りは、登山道は濡れていて滑って危険なので、
車道を降りてきました。


姫路市内でコインランドリーに入って
洗濯をしておきました。
四国に居る時のように
コインランドリーを探すのに苦労しなくて済むのは助かります。

そこから、明石港に向かいました。
明石港のフェリー乗り場を次のナビの目標地にしたところで、
去年の11月に甥っ子に連れて行って貰った
明石焼きの店を思い出しました。

そこからは、「明石焼き! 明石焼き!」と
唱えながら、自転車を漕いでいました。
たこ焼きは、今では全国で食べられますが、
明石焼きは、ほとんど明石でしか食べられません。
明石では明石焼きとは呼ばず、
「たまご焼き」と呼ばれています。
形は、たこ焼きで、中にタコを入れますが、
その名前からも分かるように、
粉を水ではなく卵で溶きます。
そして、ソースやマヨネーズではなく、
だし汁で頂きます。
たこ焼きよりもかなり上品な感じです。

私が目指した店は、「ふなまち」というお店
11月に甥っ子に連れられて、3軒の明石焼きの店に入りましたが、
一番安くて一番味がしっかりしていて美味しかった店です。
http://tabelog.com/hyogo/A2804/A280401/28001170/
場所はうろ覚えでしたが、
明石の明石焼き通りからの道順を覚えていて
店の名は忘れていても行き着くことができました。
店には待ち客が居らず、すぐに入ることができました。
ただ、持ち帰りなのか、配達なのか、店に居ない客の分を焼くのに忙しく、
なかなか私の食べる分になりませんでした。

でも腹を空かせて、食べずに走ってきた価値がありました。
ふわっとしていて、卵の味がしっかりしており、
中のタコが生き生きしています。
付け汁もしっかりだしが効いていて、
500円なのに、こんなに美味しい!

相席した方から、近くの「今中」という店もお奨めというので、
その後行ってみましたが、残念ながら、閉まっていました。

その後、近くのマクドナルドで、9:20まで過ごし、
9:40のフェリーに乗るべく、船着き場に行きました。

と、ところがです。
フェリー乗り場が閉鎖されています。
そこでもう一度、スマホで、
「明石、岩屋 フェリー」でHPをだし、
今も運行しているのを確認し、
そこにある電話番号に電話してみました。
すると、「フェリーは2年前に閉鎖しました。」ガチャ
そりゃないでしょ。
HPにはちゃんと運行しているように書いてあるじゃない!
で、再度同じ番号に電話して、
自転車で、岩屋に渡りたいんだと言うと、
「橋を渡ってこっちに来なさい。」と言われます。
橋!?って何処の橋?
どうやらフェリー乗り場だったところから西に行けば良いらしい。
もう、すぐに出航時間の9:40になってしまう!
全力でぐるっと回って橋を渡り、
今にも出航する直前に「淡路ジェノバライン」に行き着きました。
結局、出航を3分ほど遅らせて貰って、乗り込むことができました。

焦っていたので、乗り込んでから、
手元からスマホが消えていて焦りました。
もう船は出航しています。
また、スマホのために明石に戻ってこないとならない?
それとも電話で確認する?
焦って探していたら、
チャリのハンドルバックから出てきました。
ほーっとした一瞬でした。


岩屋に着いてからねぐら探し、
最初に「国営明石海峡公園」を目指しますが、
国営公園というのは、アルプスあずみの公園でもそうでしたが、
國の金を使って作って運営している公園ですが、
貧乏人は入園お断りっていう公園です。
しっかりと囲まれていて、駐車場にすら入ることができませんでした。

その先を志筑の八幡寺目指して走っていくと、
東浦ターミナルパークというのがあり、
その道、川を隔てて隣にひがしうら文化館という施設があり
その裏側に軒の出ているところがあったので、
そこにテントを張りました。


なんとか、1時頃には寝ることができました。
ちょっと遠いけれど、トイレあり水場ありの好条件地です。



本日の走行距離は、86kmでした。

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テーマ : 自転車旅行
ジャンル : 旅行

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プロフィール

ねこって

Author:ねこって
 世に巣喰う(金融,医療,エネルギー等の)利権を排除し、メディアによる染脳から脱却し、オルタナティブな社会の実現を目指しています。
 キーワード、国民配当(ベーシックインカム)、千島学説、地球環境蘇生運動 

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