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蟻からキリギリスの時代に向けて(4)

副題 すでにキリギリスになっても大丈夫な資産を持っている。


(1)
(2)
(3)



 素朴な疑問
 社会のあらゆるところで機械化が進み、
 あらゆる生産物が効率よく生産されるようになったのに、
 どうしてほとんどの人は、未だに8時間労働、
 さらには長時間のサービス残業までして働き続けないとならないのでしょう?
 なぜ、途上国の人々は植民地から解放されたにもかかわらず、
 餓え続け、益々飢餓が蔓延していっているのでしょう?

 これに答えられる人いらっしゃいますか?



 19世紀にヨーロッパで産業革命が起こり、
 様々なモノの生産効率が高まりました。
 それと共に、各国が世界に植民地を持つようになり、
 その産物が、自国内に輸入されるようになりました。
 そのおかげで、自国と近隣諸国に限られていた経済圏は、
 世界中を相手とするようになりました。

 18世紀までの搾取のピラミッド(搾取構造)は、
 自国の領地だけ眺めることができれば理解できたのですが、
 19世紀に入り、そのピラミッドの構造が世界に広がりました。

 つまり、先進国と呼ばれる国の搾取のピラミッドの最底辺の人々は、
 搾取のピラミッドの最底辺にいる訳ではなくなったのです。

 そのため、多くの労働者は、
 単純に、工業化が自分たちの生活を楽にしてくれたと思い込んでいます。
 それは、教え込まれた知識でしかありません。
 染脳の場である、学校教育では、そう答えるのが正解として扱われています。

 ところが、実は、その豊かさは、海外に不況の輸出をしていて、
 その分だけ自分たちが搾取から免れていたという
 構造的な理由に依るものだったのです。


 工業労働者は、安い賃金で働く下層労働者でしたが、
 そこで生産される衣料品は、植民地に輸出され、
 そこで市場競争力にモノを言わせ奪ってきた食料で、
 その工場労働者の食料を確保しました。
 それにより、工場労働者の不満は抑えましたが、
 結果として、それは植民地の農園労働者の生活を奪うことになりました。


 これを、「格差の輸出」「不況の輸出」と呼んでいます。
 そのために、先進諸国の最底辺に居る人々には、
 搾取のピラミッドが見えなくなりました。

 そのことから、自分たちが先進国の一員で、産業革命の恩恵をうけ、
 それ故に、豊かな社会生活を営むことができる優位性を持った国民だ
 と信じ込ませることができ、
 途上国の人々は、未開で知識がなく、それ故に貧困なんだ。
 と思い込むようにされました。
 我々は、知識を持っている資本主義社会の住人だから、
 効率的に自分の代わりに仕事をしてくれる工業製品の恩恵を受けることができ、
 途上国の人々は、知識がないためその恩恵には預かれないという考えは、
 先進国の人々の強い支持を取り付けました。


 私たちは、化石燃料を使ったエネルギーにより、
 かつてと比べ、生産効率が数百倍数千倍と
 飛躍的に高まった時代を生きています。

 人口が増えて、増えた分だけ食料が足りなくなると、
 問題視されている方がいらっしゃいますが、
 その間人口は 18世紀の産業革命が始まった頃は10億人程度だったのが、
 1950年には、23億人、現在2011年で70億人と、
 せいぜいが10倍になった程度です。
 これまでの生産の効率化の実現速度から考えても
 食糧不足が問題になるレベルではありません。


 にもかかわらず、貧困、飢餓がなくならないのは、
 その社会システムに問題があるからです。

 その問題がある社会システムとは、搾取構造のことです。
 その構造によって餓死者が後を絶たず、
 そのニュースによって、
 先進国の人々に人口増加が餓死の原因と思わせているのです。

 現在、世界で貧困や飢餓が起きているのは、
 この搾取によるもので、
 その搾取をなくしただけで、
 世界から貧困と飢餓は一掃されます。


 先にも書いたように、
 世界は技術開発により、
 様々な生産部門で、生産の効率化が進みました。

 その恩恵に浴すことができるのは、
 現在は、お金を持っていて、その商品を買うことができる人だけです。

 逆に言えば、お金を持っていない人は、
 その人がアフリカの原野に住んでいようと、東京に住んでいようと
 その恩恵を受けることができない。
 というのが現在の社会システムです

 だからこそ、食料が余っている日本に於いても
 餓死者が出るようになってきてしまったのです。

 同じこの時代に生きていて、これは本当に平等なのでしょうか?
 それとも、そういう不平等はあっても構わないことなのでしょうか?



 私は生産の効率化によって生み出される余暇時間は、
 社会資産として国家が全ての国民に配分すべきものだと考えています。
 一つ一つの特許は、個人の財産かもしれないですが、
 その特許を生み出す下地は社会に掛かっています。
 下地そのものは、社会の財産なのです。
 資産を持っている者だけが享受を許され、
 資産を持たない者は享受できないというのは、
 不平等そのものです。

 つまり、社会全体の生産効率がかつての100倍になったとしたら
 一人一人が働かなければならない量は、
 1/100になってもおかしくないはずなのです。
 それを誰かが独り占めするというのは
 おかしなシステムです。

 その、生産効率は産業革命前の
 1万倍、10万倍と言っても良いほどに伸びているはずです。
 その間に平均的な一人の人が求める生産量は
 どの程度に増加しているでしょうか?
 おそらく世の人々の必要としている生産量を平均した時には、
 現在生産可能な生産物の1/100とか1/1,000という量でしかないと
 私には思えています。


 日本の社会では、生産物が余ったことから、
 最初はこれまでなかったいろんなカタカナの職業を生み出すことで
 直接的な生産とならない新たな職場を生みだし、埋め合わせてきました。
 しかし、そういう職業も人員過剰となって余ってしまったから、
 デフレとなって、職のない人々が街に溢れるようになっています。


 もうすでに、労働を義務として、
 「働かざる者食うべからず」という観念で人々を縛って無理に働かさなくても。
 国家から、全ての人々に毎月毎月先人の遺産として
 生活費を配給し消費を盛り上げてもらう時が来ています。


 その上で、国家から貰うだけでは足りない、という人、
 もっと社会貢献をしたかったり、名誉が欲しかったりする人が、
 完全なる自由競争の社会の中で、生産活動をすれば
 事足りるほどに社会は成熟しています。

 これは、共産社会とは違います。
 基本的な必要を満たす責任を国家が負いますが、
 その先は、完全自由競争の社会です。

 更に、原始社会の構造の方が良かったから、原始社会に戻りなさい。
 というのとも違います。
 社会の発展形態として、新たなステージに入ることを示しています。
 原始社会に於いては、生産能力が低く、保存もできないため、
 好む好まないにかかわらず
 閉鎖された狭い社会において労働を分担することが要求されました。

 しかし、現代社会は、労働しなくても多くの人が消費のみで生活でき、
 その余った時間を創作活動に振り向けることができる時代なのです。
 しかも、いとも簡単に、70億の人の中から、
 地球の裏側の誰かを選び出し、情報交換たり、関係を築いたりすることが
 できる時代に私たちは生きています。

 つまり、先人の多くの人々により築かれた、
 生産からコミュニケーション、生活基盤に至までの財産と共に
 新たなモノを生み出すための70億人という財産を私たちは有しているのです。


 100人いれば、100人とも、何もせず遊んでいたいとは言わないはずです。
 どんなに悪くても、おそらく10人の内一人ぐらいは何らかの生産活動をして
 もっとお金を稼ぎたかったり、
 ボランティアなど人の世話をしたかったりするはずなのです。
 実際にはおそらく、1%の人が生産活動をしたら、生産物は事足りる時代に
 私たちはさしかかっています。

 引きこもりというのは、社会に対して負い目があるから引きこもるのです。
 全ての人が自分と同じように国家から生活費を支給して貰い、
 引きこもることが許されてしまったなら、
 負い目を感じる必要がなくなり、
 これまで引きこもっていた人は外に出始めます。


 生活できるだけ誰もが政府から支給してもらっていたとしたら、
 生きるために嫌々仕事をする必要はなくなるので、
 労働者は、辞めたら生活できなくなると心配して、
 安給料で働き続ける事はなくなります。
 また、生活していくために身売り、売春をすることはなくなります。

 雇う側は、不必要になったらいつでも解雇することが許されるようになるし
 未熟な内は、見合うだけ給料を安くすることも許されるようになるでしょう。

 つまり、生きることができるかできないかに関係のなく
 仕事を選択できるため、
 対等な労使関係がそこで生まれることになります。


 そうなると、
 おそらくその世界では、教師のような仕事は誰もがやりたがるので、
 ほとんどボランティアがやる仕事になるでしょう。

 逆に、ゴミ処理、トイレ掃除のような仕事はやりたがる人が居ないので
 給料が高くなるかもしれません。

 更に原発のような放射能を浴びて、
 どのくらい寿命を短くするか分からないような仕事に対しては、
 危険手当が何千倍というぐらい付けないと
 人が集まらなくなる可能性があります。

 ここで生まれるコストが、
 本来の原発のコストと考えて良いだろうと私は思っています。




 そうなった時、
 格安の人件費によって競争力を得てきたチェーンストアーは
 様変わりする可能性があります。
 おそらく、チェーンストアーは、人件費では個人商店には敵わなくなり、
 別の特色によって競争せざるを得なくなるのではないかと思います。

 個人商店は、無理に売れなくても、
 基本的な生活費は政府からもらえているので
 お小遣い稼ぎに経営しているみたいな店が増え、
 売れようが売れまいが関係なく個人個人の好みによって
 地域には個性的な店が豊富になり、街は賑やかになります。





 私たちは祖先から受け継いだ膨大な遺産を持っています。

 そう、  私たちは持っているのです。  すでに。
 持っているのに、持っていないと思わされてきました。

 思い込まされていることにこそ、
 彼らの染脳が行き届いている証拠なのです。



 その財産を使って欲しくないと思っているのは、
 恐怖によってこの世界を支配していたい人達です。

 恐怖というのは、働かないと生きていけないという恐怖です。
 と同時に、誰かに働いてもらわないと生きていけないという恐怖でもあります。

 あなたに財産がないならば、前者の恐怖を抱き
 あなたに財産があった場合には、後者の恐怖を抱きます。



 祖先の遺産というのはその子孫達が楽に暮らしていけるよう
 祖先様が残した財産です。

 その意を汲んで私たちはその財産を積極的に使う時が来ています。



 「働かざる者食うべからず」と言われる呪縛からの解放
 これは人類に新しい時代をもたらすことになるはずです。







 エッ?
 その金をどうやって作り出すかって?

 簡単だよ。

 ヒント、
 私は(2)で金利を批判しています。
 借りた物は返す必要はあったにしても、
 金利までは返す必要がない社会を作れば良いだけです。
 財政から金利の負担が消えた時
 日本の国家は、かなりの財産を持っていることに気づくでしょう。



蟻からキリギリスの時代に向けて(1)

蟻からキリギリスの時代に向けて(2)
蟻からキリギリスの時代に向けて(3)
蟻からキリギリスの時代に向けて(4)
蟻からキリギリスの時代に向けて(5)





テーマ : 予言
ジャンル : サブカル

蟻からキリギリスの時代に向けて(3)

副題 世界の資産を巻き上げる投資産業界

(1)
(2)



 世の中には、生産活動をすることなく、生活している人が居ます。


 そのような人が居るということは、
 この社会に、余剰生産があって初めて可能になります。

 かつては、そのように生産活動に従事しない人々を、
 領主とか貴族と呼んでいましたが、
 貨幣経済が世界を支配するようになり、
 今はそのような人々を資本家とか、資産家と呼んでいます。


 金利は、元々ギャンブルから生まれました。
 つまり、貸した金が返ってくるか返ってこないかのギャンブルの中で
 そのリスクをヘッジして、金利と手数料が加えられたということです。

 その内に、その金利が別の価値を持つようになりました。、
 つまり、借りざるを得ない者から資産を巻き上げる手段としての価値です。

 日本語ではそれを高利貸しと言います。
 貸す方は、始めから返してもらうことを期待していません。
 彼らは、担保を巻き上げることを目的として金を貸すのです。
 借りる方は、明日の食べものを手に入れるため、
 止むに止まれず借金をします。
 返せないことは分かっていても、今日の餓えには敵いません。
 このことは(2)で詳しく書きました。


 資産家、資本家というのはそうやって、
 人々の生産の上前を刎ねて、搾取し肥え太る構造ができています。

 そして、彼らは、その資産を使い、投資活動を行います。
 投資家の中には、自分が働いてこつこつ貯めた金を投資に使って、
 労働から免れることができるようになった人も居るでしょうけれど、
 私は、生産活動をしていないこれらの人々を、労働者だとは考えません。
 彼らは、ギャンブラーです。


 投資家に社会的価値があるとしたら、
 その先見性により、社会が必要としている事業に資金を提供し、
 その事業が成功することを支援することですが、
 目先の株価の変動に一喜一憂し、
 為替の変化を気にしながら切った張ったをするのは
 ギャンブルでしかありません。

 現在の社会に於いて、
 本来の投資活動をしてくれる投資家はほとんど居ないのが実情です。

 投資、投機市場はGDPに影響を与えますが、
 この投資市場は産業と言って良いものでしょうか?


 投資投機市場には生産物がありません。
 ただ単に夢の泡を売って稼いでいます。
 とはいえ、確かに、パチンコ店経営は「産業」と呼ばれていますが、
 他のサービス業と同じく生産物はサービスなのでモノとしてはありません。

 そのことから、もしかしたら「投資産業」と呼んでも良いのかもしれませんが・・・、
 私は、パチンコや競馬を含め、バクチを産業と言って良いのかどうか
 ちょっと考えてしまいます。

 ついでに、
 一度ギャンブルで贅沢することに味をしめてしまった人は、
 その同じ夢を見続けたがるというのが通常で、
 そうなると、もう生産活動に戻るのが難しくなってしまうもののようです。
 それは、投資、投機の世界でも一緒で、
 彼らは、自分の財産がスッカラカンになるまで
 その世界から足を抜くことはできません。
 まるで投資、投機の世界には、麻薬のような効果があるかのようです。

 そして恐ろしいことに、その「投資産業」は、
 実に八百長も平気でやっていて、
 意図的に会社を倒産に追い込んだり、株価をつり上げたりし、
 情報戦を仕掛けることで、
 個人投資家やら、自分の配下にない機関投資家から
 掛け金を巻き上げることをしているのです。

 最近では、半導体大手エルピーダに関わる空売りを
 ゴールドマン・サックス(GS)とクレディ・スイスがやって大儲けした話があります。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/28630362.html
 保険大手AIG救済において、
 元米財務長官ガイトナー氏がやったことも暴かれました。
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/28670190.html

 このようにして、あの手この手で
 最終的には、多くの資本家の資産も投資市場の中で
 胴元の「投資産業」にその全ての財産を奪われていくことになります。



 元々ヨーロッパの文化には、『共生』という考え方はありません。
 ですから、相手を征服し、自分たちが支配するか、支配されるか、
 という対立的な考え方をします。
 その末裔が、今世界の経済の大半を牛耳っている投資産業界です。


 王侯貴族の時代、彼らは世界を領土的に支配し、
 各地に植民地を作りました。
 それは軍事的が力を背景に
 自分たちの経済的価値観を他の国々に押しつけたことから
 可能になりました。

 アフリカや、アメリカ大陸で暮らしていたネイティブにとって、
 ヨーロッパ的『所有』という感覚は理解できませんでした。

 元々、土地に、『所有権』があるなどと、これっぽっちも思っていなかったでしょう。
 彼らが持っていたのは、「分配権」と表現した方が良いもので、
 今の私たちの抱いている『所有権』とは異なるものです。

 当然、狩りをして得た獲物は自分のモノと主張する訳ですが、
 あくまでもそれは、『所有権』としての自分のモノと言うよりも
 「分配権」としての自分のモノで、それそのものは誰の所有物でもなく
 あえて言うならば、神の所有物と考えて良いものでした。

 それは、狩猟に留まらず、農耕に於いてさえ、当てはまり、
 得られた作物も、その土地も、『所有』しているとは考えていなかったはずです。


 そこにやってきたのが、西洋からの支配者でした。
 彼らは、持っている殺人兵器の優位性を利用し、
 あらぬことか、人までをも所有、売買し、領地を広げていきました。


 ヨーロッパからの支配者が来るまでの彼らは、貧しかったのでしょうか?
 確かに、今で言うところの、「原始的生活」だったかもしれませんが、
 誰かのモノを奪わなければならないほど卑しい生き方をしなければならない人は
 少なかったはずです。

 彼らが貧困と飢えに苦しむようになったのは、
 ヨーロッパ諸国に支配されて以降のことです。


 東洋に於いても、日本に於いても一緒ですが、
 領民が貧しくなるのは、統治者の搾取が原因です。

 まつりごと(政)は、元々、仲間の生存を計ってなされるものでした。
 経験と、先見の明がある者がリーダーとなり、長老として敬われたり、
 霊感があり、神の神託を告げることができた者が巫女として
 仲間の生存を確保していくために、選ばれました。
 それが、原始共同体です。

 そうする中、隣の部族との間で縄張り争いが起こり、
 それにも対応する必要が生じてきました。
 その当たりから、『所有権』という権利が生まれてきたのかもしれません。

 つまり、人々から選ばれるリーダーに対して、
 そのリーダーの地位を恒常的に我がものとしようとする者が現れてきて、
 それを実現した時に、統治者が生まれたと考えて良いでしょう。


 そして、統治者が生まれることで、それを管理する必要性から、
 支配構造としてピラミッド構造の上意下達の方式が
 生み出されたと考えて良いと思います。


 そして現代社会に於いては、
 そのピラミッド構造が自由と平等の名の下に、表面上は隠されていますが、
 実際には、金利によって、低所得者層の収入を吸い上げることで
 それを実現しています。


 じゃあ、投資家が居なくなったら、
 経営者はどうやって会社の経営資金を調達するのだ!
 という疑問を抱かれる方がいらっしゃると思います。


 それに対しては、
 信用金庫や、信用組合といった
 地方の小規模の銀行の仕組みが参考になります。
 また、投資家を社外に求めるのではなく、
 所属している社員の株主化への積極的支援が
 経営者の暴走を抑え、経営基盤の安定化を生み出します。
 ただし、従業員持株会は廃さなければ、その制度は従業員のためにならないことは
 付け加えておきます。
従業員持株会の問題点
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/97-6/michino.htm

 つまり、地産地消のみならず、そこに地域内投資を加えることで
 そこで暮らす人々の生活が豊かになって
 その地域での経済が活性化し巡ることになります。

 それが可能な社会が生まれた時、
 その社会から、金利を不要とし、
 ギャンブル的な投資投機市場を廃することが可能になると考えます。




消費増税論議に乗る前に、われら国民は本来、受け取るべき預金利子を
財務省と金融機関に搾取されていると気付け!
新ベンチャー革命 2012年2月22日 No.536




共同体社会の実現に向けて-21 ~実現論序6 
新時代を開くのは、共同体企業のネットワーク(その1)~
日本を守るのに右も左もない 2012年03月01日





蟻からキリギリスの時代に向けて(1)

蟻からキリギリスの時代に向けて(2)
蟻からキリギリスの時代に向けて(3)
蟻からキリギリスの時代に向けて(4)
蟻からキリギリスの時代に向けて(5)





テーマ : 予言
ジャンル : サブカル

武道で根性がつくという幻想

気になっていたことがありました。
それは、「中学校武道・ダンスの必修化」における推進論者の根性論です。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1221013.htm

 これは、文科省が平成20年3月告示の中学校学習指導要領で
 必須化を推進してきたことで論議が湧いた時期があります。

 最近でこそ、あまり、話題になっていませんが、
 この四月より本格的に導入されることが決められています。

 これは「美しい国」を旗印にした国粋主義者、安倍内閣(06.9.26-07.8.27)時、
 政治主導の「教育再生会議」で盛り込まれた数少ない安倍晋三政権の遺産です。


 この指導要領の推進者は、「根性論」を語り、
 反対者は「事故を心配するというように
 全く議論が噛み合っていなかったと思います。





 その趣旨は、
 「武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、
 相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する」
 とのことです。

 指導要領には表だって『根性』という言葉は使われていませんが、
 実際に指導する武道家には、根性論を振り回す
 頭が筋肉でできていてシナプスが足りない方が多いようなので
 そのことは注意しなければならないと、私は考えます。

 そして、それを振り回す輩が指導している時に、
 『事故』が起こると私は考えています。



 これに似た例に、「戸塚ヨットスクール」があります。
 このスクールで子ども達の根性をたたき直して貰いたいと望む親が居て、
 子ども達が集められました。
 しかし、そこで行われたのは実際にはリンチです。

 死亡事故が起き、告訴されるなど、
 このスクールに対する風当たりがかなり強くなった時期がありますが、
 手を付けられない子供が世の中から居なくなった訳でもなく、
 スポ根的な指導が子供を矯正すると信じる人々が、
 このスクールに頼り、このスクールを支え、
 時々問題が起こって表に現れることがありますが、
 それでも頼る人が後を絶たず、延々と、経営され続けています。




 教育再生会議の提言では
 武道を通じて、徳目や礼儀作法、形式美、様式美を身につけさせる。
 ということでしたが、
 この、「徳目や礼儀作法、形式美、様式美」ってのは
 どうして武道と結びつくのでしょう?
 茶道、華道、はたまた弓道にはそれはないのでしょうか?
 どちらかというと、武道で覚えるよりも、
 そういったもので覚える方が効率的な印象を私は受けるのですが、

 柔道や、剣道に年間で10時間触れさせて、
 どんな効果を狙っているのでしょうか?

 日本の武道というのは10時間程度やっただけで
 身につくモノなのでしょうか?

 武道導入派にはこの疑問に答えることができる人は
 居ないだろうと思います。
 どうも私には、子供に武道を身につけるよりも、
 子ども達に対する『威圧』が目的のような気がしてなりません。
 威圧が目的であれば、
 月に1時間程度でそれなりの効果があるかも知れない
 と思えたりしています。



 まあ、そんなことを主張したくてこの文章を書き始めた訳ではないので
 その話は、ここまでとします。
 ここで、考えようとしているのは、『根性』です。


 まず、
 『根性』とはなんでしょう?
 誰かの暴力に対して、歯を食いしばり、耐えることでしょうか?
 武道以外の指導では『根性』は身につかないものなのでしょうか?
 根性を身につけるのに、野球やサッカーではダメなのでしょうか?
 はたまた、公務員試験、大学受験をに挑もうと思った時、
 そのための勉強を続けるのに、私には『根性』が必要な気がしますが、
 そのための『根性』は武道を身につけることで得られるのでしょうか?

 こういったことを考える時、大きく抜け落ちているのが
 『根性』とは、一体なんなのかということではないかと思えます。

 このことをきちんと理解していなければ、
 それを身につけさせることもできないのですが、
 どうもうやむやのまま『根性』論のみが先行していくことが
 多いような気がします。


 おそらく、武道で根性を磨いたとして、
 勉学でその根性がどの程度発揮されるか?
 全くゼロとは言わないですが、
 それほど効果が上がるとも思えないですがどうでしょう。

 もしそれがイコールで結びつくとしたら、
 世の多くの武道家は、特別枠で入学せずとも多くの一流大学に進学できるはずですが、
 どうも、そういうことはないような気がします。

 つこれは、武道で養った根性は、
 必ずしも万能ではないということを意味しているように思いますがどうでしょうか?

 私は、『根性』という言葉を聞いた時、
 「歯を食いしばって我慢する。」もしくは「歯を食いしばって頑張る。」
 という場面をイメージします。
 これは、『根性』と言っていますが、
 実際のところ「堪え忍んでいる姿」に他ならないと私は考えています。


 そこから、私は『根性』を『忍耐力』と捉えて
 差し支えないのではないかと主張します。
 もう少し突っ込むならば、目的を手にするための『忍耐力』と言えるかもしれません。
 ただ我慢するというのでは、未来に希望が見えませんが、
 目的を見据えた上で、その目的を手にするために耐えることができるかどうかで
 『根性』があるないが分かれているように見受けられます。


 それは、武道に限ったことではありません。
 漢字を覚えるにも、英語と単語を覚えるにも、
 一つでも多く覚えようと思ったら、『根性』が必要なように思えます。

 ところで、武道で養った『根性』は、どの程度、英語の単語の暗記に役立つでしょうか?
 全く役に立たないとは言わないですが、
 それほど大きな力にはならないような気がするのは、私だけでしょうか?
 もし、武道で養った『根性』が勉学にも役立つという考え方が定説化しているならば、
 世の中の進学校はどこもかしこも武道を相当に取り入れていて良さそうですが、
 どうもそういう話は聞きません。
 むしろ、進学校は、そういう部活動を逆に軽視する帰来さえ感じます。

 つまり、『根性』の捉え方に、
 何か間違いがあると考えて良いかもしれないということです。


 ここに
 一つの同じ目標を達成するのに、ヘラヘラと笑いながら達成する子供と、
 歯を食いしばり、眉間にしわを寄せながら達成する子供が居たとします。

 それぞれ、A指導者、B指導者に就いていました。
 あなたは自分の子供をどちらの指導者に預けたいと思うでしょうか?
 大概の人は、前者のA指導者に預けたいと思うのではないでしょうか?

 ところが、日本の教育の基本的な教育指導要領では、
 『根性』を身につけさせたいということで
 B指導者が選ばれるというのはどういうことでしょう?

 武道を強くするにも、英語の単語を覚えるにも
 ヘラヘラ笑いながら楽しく、強くなっても、覚えることができても良いはずが、
 歯を食いしばって学ぶことを覚えさせようとする教育指導ってなんでしょう?

 はっきり言えば、歯を食いしばってやるよりも、
 ヘラヘラしながら身につけてしまうヤツの方が強くなるし多く覚えるもの
 のような気がしますがどうでしょう?

 何故かといえば、「歯を食いしばる」というのは辛くやりたくない事であるのに対し、
 同じ事をヘラヘラとできるということは、それを楽しむことができているので、
 自然に反覆回数も多くでき、積極的に取り組むため、飲み込みも早くなるからです。


 じゃあ、どうしたら、そのようにすることができるのか?
 ということですが、
 それは、純粋に「心理学」の研究テーマであって、
 体育教師の研究テーマではないです。


 そして、この回答は、すでに100年前に
 アルフレッド・アドラーという心理学者が解き明かしています。



 『忍耐力』というのは単純に、過去の「達成感」により生まれます。
 過去に達成した経験が豊富な子供は、自ずと『忍耐力』が身についているし、
 達成する前にその達成しようとする勇気を削がれ続けてきた子供は、
 『忍耐力』を身につけてこなかったという違いがあるだけです。


 忍耐力が『達成感』と分かってしまえば、
 武道で身につけた『根性』が勉学でどの程度役に立つか
 想像できるでしょう。
 いくら、武道で達成感を多く味わっていようとも、
 勉学で勇気をくじかれることが多かったとしたら、
 いくら武道で『根性』を養おうとも勉学には役に立たないって事です。



 ここに、もう一つ付け加えたいことがあります。
 『根性』論の危うさには、『反逆者』を生む可能性が強くある。
 ということが挙げられます。

 忍耐力を削ぐ勇気をくじかれるだけならまだしも、
 反逆者を生むということは、
 その先に、犯罪者になって行く可能性を高めます。


 どうしてそういうことが言えるのか、思い描くのは簡単です。
 やりたくないことを無理矢理強引にやるよう強制され続けたら、
 どんな感情が生まれるかを想像するだけで十分です。

 それが反抗心です。
 そしてそれが親や特定の教師にだけでなく、
 学校組織そのもの、社会そのものに向けられるようになること、
 それが反逆者を生む土壌となります。

 多くの子供が親との間で反抗心をはぐくみ、
 学校でもやりたくもないことを強制され、
 反抗する度に、ねじ伏せられ続けたら、
 と考えたら、身震いしてきます。

 中学校への武道必修化には、子供を強くする以上に、
 指導する側が子供への強制力としての効果を狙っているように
 私には見えてなりません。


 『根性』に対する認識をきちんと持っていない指導者が武道の指導者となったとき
 その教育の効果によって、子ども達の反抗心を育てることになり、
 この社会に災いをもたらす効果しか得られなくなる可能性を
 私は指摘しておきたいと思います。

テーマ : 中学生のママ
ジャンル : 育児

蟻からキリギリスの時代に向けて(2)

副題 貧困がなくならない理由、金利で肥え太る金融システム

蟻からキリギリスの時代に向けて(1) 

 おそらく、現在のような社会システムがなかった時代の南の国では
 食料が余ったら、それを分け合って、
 ゆったりと暮らしていたのではないかと思います。

 現代の人々は、食料だけでは満足しなくなったということはあったとしても
 この世界、実際には70億の人が生きていても
 それほど食糧不足の状態ではないのです。
 ただ、食べものを無駄に食い散らかして、捨てている人々がいる一方で、
 未だに飢えと貧困で苦しみ、死んでいく人が居ます。

 それは、地球上には70億人が暮らすには食料が不足しているから
 と言う人が居ます。
 しかし、それは本当の事でしょうか?

世界飢餓にまつわる12の神話
http://journeytoforever.org/jp/foodfirst/report/hunger/12myths.html

 つまり、世界の食糧は足りているにもかかわらず、
 その配分の仕方に問題があって
 年間1500万人から1800万人が死んでいるということです。


 実はこのことは他人事ではなく、
 私たちの身にも降りかかり得る事なのです。


 先日埼玉で家族三人の餓死者が発見されました。
 年間日本では50-100人の人が餓死しているそうです。
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001202220002
 餓死する前に、生活苦で自殺する方も多く、
 自殺者数は年間3万人と言われています。

 日本国内、誰かが餓死しなければならないほど
 食料が不足しているのでしょうか?

 「日本国内の食料が不足している。」などと
 思っている人は一人として居ないと思います。

 にもかかわらず、餓死者が出る意味を
 私たちは真剣に考えないと、
 いつか我が身に降りかかることも有り得るのです。




 何故、世界から貧困がなくならなかったのか?
 私は若い頃、それは、途上国の人々の「教育不足が原因である。」
 という教育から学んだ理由を鵜呑みにしていました。

 ところが実は、「知識不足」の状態にあるという点は間違っていなくても、
 その「知識不足」は、自分も含めた先進国の人々に於いても全く一緒だったのです。
 何故かというと、「搾取のピラミッド」構造の知識が
 ごっそりと人々の知識から抜け落ちていて、
 支配者層に都合良く染脳されていることに気づいて居ないからです。



 多くの人が、新しい知識、先端の技術が習得できれば
 より豊かな未来が待っていると信じています。
 あなたが職生活保護を受けなければならなくなった時、
 働く意思があるかないかを尋ねられ、
 働く意思があるのに仕事がないなら、
 職業訓練を受けなさいと言われます。

 確かに、個人個人のレベルに於いては
 競争で勝ち残る事ができることから、その考え方は間違ってはいませんが、
 そこに、「搾取のピラミッド」が存在する限り、
 最底辺で餓え続ける人々は存在し続けるのです。

 そして、そのような飢えた人々は、「働かないから飢えるのだ。」
 と思うようにさせられているのです。
 ところが現状では、あっちの業界も、こっちの業界もデフレで人が余り
 あっちにもこっちにも職を求める人ばかりが余っいるだけに人件費は安く
 日日の生活費を稼ぐのも容易ではなく、
 そこに働けない何らかの事態が起きた時
 窮地に立たされることになります。


 豊かな生活をしている人々は、貧困キャンペーンなどで、
 餓え苦しんでいる人々の現状を知った時、
 かわいそうと感じ、援助したいと思って寄付したりする訳ですが、
 結局多くの場合それは、
 「搾取のピラミッド(搾取構造)」を維持するのにしか役に立たないことが多いようです。


 どんなに、新しい生産技術が生まれようとも、
 そこで生産されたほとんどの果実をその生産者ではなく、
 そのシステムの上位者が吸い上げていってしまうのですから
 最下層の人々は常に貧困と飢えに苦しむというのが
 現在の世界システムなのです。





 実は、聡明な19世紀の日本人はそのことに気づいて居ました。
 気づいて居たからこそ、自分たち、自分たちの国民が、
 そのピラミッドの底辺に追い落とされないよう。
 明治維新を起こし、
 開発が遅れていたアジア諸国の利権を求めて、
 「五国共和」を唱えて国民を煽り、欧米諸国と同じ手法で
 遅ればせながらも、アジアへの進出をしていったのです。

 国内向けには「五国共和」という宣伝文句を使っていますが、
 実際には植民地政策で、「搾取のピラミッド」の輸出でした。

 当時は、日本もそれをしないと、西欧諸国列強に日本も浸食されて生き残れないと
 日本の国を牽引していた人達は本気で怖れていたと思います。
 そして日本も、世界の中で何処の国の支配ピラミッドが最も大きく強いかの
 競い合いの世界に足を深く踏み入れていき、
 その結果として、大東亜戦争に至るのでした。




 今は、植民地はなくなりましたが、その代わり、
 近代に於いては、「国際援助」という言葉を使いながら、
 『借款』で相手国を借金地獄に陥らせ、
 搾取しているという同じ構造がそこに視られます。


 これは、零細農家が農奴になる過程に似ています。
 零細な農耕をしていた人達のところに飢饉が襲い、
 食べるものが尽き、種までも食べ尽くし、土地を担保に借金をして、
 食料、種籾、肥料、農薬を買ったところ、
 その翌年も飢饉となって、その借金と利払いのために土地を売り、
 自作農家から小作農になってしまいます。

 この小作農家は、毎年得る収穫のほとんどを
 小作料と、借金の返済のため持って行かれ、
 毎年借金をしないと食べることも何か買うこともできない状態となり、
 事実上、奴隷状態になってしまうのです。


 本国のほとんどの人々は、そのことに気づいて居ません。
 先進国の人々は、かつては植民地、今は途上国の人々を
 知識が遅れた連中と差別意識で見下げて視ています。
 ですが、実際には、「搾取のピラミッド」のより下層に落とし込められ、
 搾取され続けてきた人々でしかありません。


 おかげで、食うや食わずの最下辺の膨大な量の被支配者層を
 先進国の国内からは見え難くすることで、
 先進国では国内の秩序を保つことができました。

 それが崩れてきたのは、奴隷などにして国内に連れてきた植民地の人々を
 人道を理由に、自国民として受け入れ始めてからです。
 彼らの自国内への進出が、国内の人々の目に晒され、
 最下層労働者として扱うか、一国民として扱うかという問題となり、
 そこで起こる様々な社会不安を呼び覚ます結果となりました。
 それは、明らかに目に見える形で国内問題となって、先進諸国を覆っています。

 日本では、日本国内で強制労働させた韓国人、朝鮮人に対して、
 同様の事が起きています。






 権力者というのは、一旦権力を持つと、その権力を
 更に大きくしたくなる傾向にあるのは、世界共通です。
 豊臣秀吉が、日本国内の統治に飽き足らず、
 朝鮮まで攻め入ったのも、それが理由です。

権力者の歩く道 2012-02-25
http://chifmi.blog.fc2.com/blog-entry-63.html



 第二次世界大戦までは、途上国を植民地化することで
 そこから様々な資源を収奪し、本国に送ることで
 本国の人々に利益をもたらしました。

 しかし、第二次世界大戦後は、
 虐げられた植民地政策に耐えかねた民衆が蜂起し
 世界各地で独立運動に火が付いて独立国が生まれました。

 それに対して、先進国が植民地化政策の代わりに
 彼らに金を貸すことで支配する方法を執りました。

 貸した金は利子を付けて返さなければならない。
 それが独立した元植民地の国々に、
 独立国と認める代わりに課した陰謀です。

 先進国の資本家は、工業製品を買ってもらうのに
 金を貸し付けました。
 それを返してもらうため、非効率な庭先の多種栽培の農業形態から
 効率的なプランテーション農業で輸出振興することが必要だと解き、
 緑の革命を推し進め、農産物の価格破壊を実現しました。

 それにより、途上国では年々借金が膨らんでいくことになり、
 植民地時代以上に、貧困度を増していきました。
 更に、その国で資源が見つかると、その採掘権を安く買い叩き、
 その採取のためのインフラを採掘されれば儲かると欺し、
 『借款』により整備させ、再びそれらの資源も、
 市場に溢れさせることで暴落させ、途上国には借金だけを残し、
 その資源の収奪権だけは資本家が確保し続けました。

 これは、先ほどの零細農家が農奴に化す過程そのものなのです。



 それが、かつての領主に代わる現代の支配者たる資本家の
 植民地政策に代わって用いられた世界支配の手法です。

 そんな訳で、途上国の一般庶民は自分が望んだ訳でもない国の借金を
 安い労働力で支払い続けなければならない立場に追い込まれ、
 収奪され続ける立場に堕とし込められた訳です。

 最近ではヨーロッパで、ギリシャがこれと同じ事が起きています。


 ここで私たちは、借金をしたら、返すのは当たり前というのは
 まだ、良いにしても、
 そこに『金利をつけて』返すことに注意しなければならないと思います。
 ほとんどの人々はこのことに、何の疑問も持っていないようです。


 この世界の中で、持っているだけで増えていくモノって何があるでしょう?
 自然の中に何かあるでしょうか?
 手を加え、世話をすることで、増えていくものはあります。
 ですが、ただ置いておくだけで増えていくものはないどころか、
 普通、自然界にあるものは、置いておくと劣化、腐蝕して、
 元の形を留めないのが普通です。


 その中にあって、誰かに預けておくだけで増えていく金利というものが
 かなり特殊なものだと理解して良いのではないかと思います。



 面白いことに、
 様々な宗教に於いて、金利を取ることを禁じています。
 有名なところでは、
 イスラム教では、シャリーア(イスラム法)において利子を取ることを禁じています。
http://www.jgnn.com/si/archives/2008/06/post_8.html


 キリスト教に於いても、
 聖書の「出エジプト記」22:「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に
 金を貸す場合は、彼に対して高利貸しになってはならない。
 彼から利子をとってはならない」と記されていることは知られたことです。
 アリストテレスが『政治学』で「貨幣が貨幣を生むことは自然に反している」と述べ
 カノン法で利息取得を禁止していました。
http://kinri.oniz.name/4.html

 そろそろ、
 現行の金融システムが、本当に正当なものなのかどうか、
 考え直さなければならない時に来ているのではないでしょうか?



蟻からキリギリスの時代に向けて(1)

蟻からキリギリスの時代に向けて(2)
蟻からキリギリスの時代に向けて(3)
蟻からキリギリスの時代に向けて(4)
蟻からキリギリスの時代に向けて(5)





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蟻からキリギリスの時代に向けて(1)

副題 生産よりも消費が貴重になる時代


 この副題を読んで、そんな時代が来る訳ないと思っている人が
 ほとんどだと思います。
 しかし、その門戸を開きつつある時に私たちは立ってます。


 分かりやすい事例を挙げると、まず、このブログです。
 今、沢山の人々がネット上にブログを書いています。
 ブログを書いて、自分だけで読むという人も居るでしょうけれど、
 多くの場合、できるだけ多くの人に読んでもらいたいと思っています。

 練りに練って紡ぎ出した文章は、誰かに読んでもらえてこそ価値がありますが、
 誰にも読んでもらえないというのは寂しいものです。

 ここに、ブログを書くというのが生産で、
 ブログを読むというのが消費だと言えば分かっていただけるでしょうか?

 私は、あらゆる生産物が、そのようになって行く事を預言します。
 価値ある内容ならばお金を払ってでも読みたいと思いますし、
 価値がない記事は、お金をもらっても読みたいと思わないかもしれません。


 今はまだ、生産コストが高いため、
 あらゆる生産物が、ブログの記事のようになるとは
 思えていないかもしれませんが、
 生産コストが下がれば下がるほど、
 生産よりも、消費の方が貴重になるって事です。

 そしてその生産コストの低下、減少はすでにかなり進んでいるのですが、
 それは、世のほとんどの人々に対して隠されています。



 まず、そのような時代を迎えるために超えなければならない
 大きな課題があります。

 その大きな障壁は、
 世の中で当たり前のように信じられている言葉
 「働かざる者、食うべからず」
 という価値観の大転換です。

 その次に来るのは、生産コストの中でも、エネルギー問題ですが、
 これは、最初の障壁が消えた時点で、
 エネルギー利権カルトも消え去ることになり、
 化石エネルギーも格安となり、さらにはフリーエネルギーの存在が明らかになるので
 心配する必要がありません。

 たとえばすでにこんなものがあります。
スマホの電池切れ、もう心配無用!水さえあればOKな充電器登場
AFP BBNews 2012年03月01日

スプーン一杯の水でスマホのフル充電が可能な燃料電池などの紹介です。


 化石燃料に頼らずに、
 生物が産みだしている生命エネルギーも電子であることに気づけば、
 生命エネルギーを直接、熱エネルギー、電気エネルギー
 もしくは運動エネルギーに変換するのは
 それほど困難な技術ではないと思えます。


 つまり、人類が新しい時代を迎えるための障害は
  「働かざる者、食うべからず」の価値観から
 脱却できるかどうかに掛かっているということです。

 この価値観の大転換が社会で起きた時、
 その他のことは、自ずとそれに伴い起こってきます。


 この価値観に縛られている人々は、
 誰もが遊んで暮らして良いシステムができてしまったら、
 誰も働く人が居なくなり、ひいては、自分も今の生活を維持できなくなる。
 そう考えていらっしゃるのではないでしょうか?

 しかし、その固まった考えこそが、最大の障壁だと私は語ります。
 それでは、新しい時代はやってこないと断言します。

 この「働かざる者、食うべからず」という価値観は、
 いつ頃どうやって築かれた価値観なのか、ご存じでしょうか?
 現在の世の中には、働かずに生活している人が一杯居ます。
 もし、この言葉が正しいとしたら、
 日本の子ども達はほとんど生きいてはいけない人達ってことになります。

 私は、知的障害者の方々とも友達づきあいしていたりしますが、
 おそらく、その人達も、生きいてはいけない人達ってことになります。

 年金生活をしている老人も、働いていなければなりません。



 日本の子ども達、障害者は、比較的に恵まれています。
 先進国と呼ばれる、アメリカ、ヨーロッパですら街角に
 毎日のように何らかの小遣い稼ぎをしてないと生きていけない
 食うや食わずの子ども達がいます。



 おそらく、
 「働かざる者、食うべからず」という言葉は、原始社会にはない言葉です。
 原始社会では、生産できないと生きていけないという
 そういう事実があるだけでした。
 この価値観は、食料が余り始めてきて、
 その食料を、独り占めするもしくは、分配する権利をもった
 特権階級が現れてきた時に生まれた言葉です。

 彼らは、自分が働きたくないので、
 自分の食料分配の権利を使って、より、奴隷達を働かせるために、
 この言葉を言い始めました。


 ピラミッドの頂点で使われたその言葉は、
 抑圧の構造の中、ピラミッドの下辺に至るまで浸透しました。
 そこには、ピラミッドの下辺の労働者達は
 生産物を上納するのが当たり前という搾取のシステムがありました。

 頂点で暮らす人々は左うちわの生活ができるのに対し、
 下層社会では、生きるのにぎりぎりになるよう留められました。

 人々がもっとも恐怖することは、
 「人からどう思われるか?」という回りの目です。
 これを上手く使うことができた支配者は、
 安定的に搾取構造を維持することができました。

 閉鎖的村社会の中で、村八分にされたなら、
 生きるのはとても困難となります。
 その村八分の原因は、その個人の行いが
 他の村の人々の生存権を犯すと見られた時に振るわれます。

 支配者は、共同責任という形でグループ毎に徴税の枠を掛けました。
 そうすることで、怠けている者が現れないよう
 底辺の者同士がお互いに監視し合うシステムを築きました。
 誰かが怠けていたら、その所属グループが共同責任を問われます。
 誰かが反乱を起こしても、その所属グループが共同責任を問われます。
 そうやって、最底辺の者同士がお互いに監視し合うシステムを構築したのです。

 最底辺の者同士の中で、お互いに監視し合い、
 自分の生活を脅かさないため、
 「非国民」「アカ」と言われることを毛嫌いするよう仕向けました。

 本来、「非国民」と言われた人は、管理社会に疑問を抱いた人だし、
 「アカ」と呼ばれた人は虐げられている大多数の最底辺の人々の
 味方をしたい人だったかもしれないのにです。


 それは、現代に於いてもなんら、変わりません。
 そして今も、ほとんどの人々が、その呪文に染脳されたままとなっています。



蟻からキリギリスの時代に向けて(1)

蟻からキリギリスの時代に向けて(2)
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プロフィール

ねこって

Author:ねこって
 世に巣喰う(金融,医療,エネルギー等の)利権を排除し、メディアによる染脳から脱却し、オルタナティブな社会の実現を目指しています。
 キーワード、国民配当(ベーシックインカム)、千島学説、地球環境蘇生運動 

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